無責任極まりない流言飛語や特定言論へ誘導するようなツイートがあふれています。
こういう情報発信は本当に迷惑ですし、人の心を無暗に不安にしたり、人に対して攻撃的になったり、関係を分断してしまうようなものが多いので、本当にやめていただきたい。また、そういう情報を目にすることがキツい方は、しばらくネットから離れ、自分の好きな事や自分の生活に集中されることをおすすめします。そして、平和なツイートを流していただいている皆様、ありがとうございます。
では、今回の本題に入ります。
この話をする前にまず、一度自分の中で整理する時間を作ってみたのですが、あらためて自分の考えを掘り返してみると、自分が表面的に「こうじゃないかな~」って思ってたことと、思索して見えてきた自分の意見とはちょこちょこ違うトコあるんだなぁ~って思わされる感じでした。また、この原稿自体は一昨日くらいに書いていたのですが、昨日の件を受けまして、少し追記・修正しました。
ところどころまとまり切ってない内容でもあるのですが、今回の記事は色んな立場で「表現の自由を守りたい」人にとって、ちょっとした頭の体操と言うか、目からウロコ(自分で書いててウロコが落ちました)。自分の主張をあらためて考える上での一つのタネになるんじゃないかと思います。
まずスタンスと結論についてお話します
まず大前提として、表現の自由については基本的には最大限守られるべきだと考えています。
エロもグロもショタもロリもオタも腐もジェンダーや人種差別も日本批判も日本礼賛の内容もすべてだと考えています。
で、これに対する批判・批評・論評も自由だと考えていますし、それに対するさらなる批判・批評・論評も自由だと考えています。
これは、言論においても同じです。
・・・これ、ここまでだと色んなところから叩かれそうですねw
ここで、とても大切な加えるべきものがあります。
表現の自由に国が介入することについては明確に反対なのですが、それを精神的に未成熟・社会的判断に自分で責任を持てない未成年者層に見せることについては一定の線引きが必要だと考えています。現代は基本的な道徳観念(共通認識)が喪失し、表現の自由が暴走している状態にあるので、基礎的道徳観の教育と、精神的に未成熟な年齢層に対しての自由な表現フィールドへのアクセス規制を法的に強化・強化して欲しいと言うものです。
・・・む~、ここまででも色々言われそうw。
でもこれって、昔はありましたよね?
今は変に規制がかかっているところがあったり、変に自由なところがあったり、そう言った情報に簡単にアクセス出来たりと、基準がバラバラ・グチャグチャになっています。
なので、これにちゃんとした基準を法律のレベルでもそうですし、社会のレベルでも制限を設けて欲しいのです。
個人的な結論としては・・・
表現の自由は最大限守られるべきですが、暴走するとただ好き放題やりまくる無法地帯になるので、キチンとした基礎的道徳教育の上に「表現の自由があるべき」ってコトです。
なお、「表現の自由」の上に「公共の福祉」が存在しているので、「表現の自由」は「公共の福祉の範疇」において、最大限の自由を確保されるべきと考えます。
公共の福祉について
ウィキペディアよりの引用/争いがあるが主に他人の人権を侵害するような自由及び権利は制限されるという意味を持つと解釈されている。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できる。
とあります。
これは日本国憲法(現行憲法)で定義されている内容ですね。
今、世の中は「表現の自由」が暴走している印象がとても強く、憲法で規定されているこの内容が影の薄い存在になっているように感じます。
なので、公共の福祉に反する内容の表現については、キッチリと規制が必要だと思います。
ただ、乱用すると権力による表現の束縛になるので、表現の上限値については官民合わせて議論を深めて決めていく必要があり、決めたものについては徹底していく必要があると考えます。
また、人種差別等、反社会的な価値観の表現についても要検討ですよね。こう言った反社会的なモノに対して啓発・歴史の振り返りをするような表現と、本当に人種差別を行う行為(例えばKKKやネオナチのような思想)を、思想信条の自由や表現の自由の名のもとに正当化し、実際にそう言った思想を普及するための表現活動をするのとでは、天と地の差があります。
基礎的道徳について
基礎的道徳観とは、公共の福祉で定める法的なものとは別のもの。
私たちがお互いに尊重・調和して暮らしていくために必要な一定程度の共通認識・・・常識です。
もうちょっとわかりやすく言えば、「気遣い」とか「正しい意味での人同士の違いを認め合うこと」とかです。
これは国や文化・地域・家族などのコミュニティによって違うものですが、根本的にこの基準が違い過ぎると、一緒に暮らすことが困難となります。
なので、その共通認識を国として育むために、日本の目指す国家観・価値観をきちんと定めたうえで、国としての基礎的道徳観を定義。それを基準とした教育を可能であれば物心ついた段階から教えていく方法が良いかと考えています。
※公共の福祉を基準として定める表現の自由の規制も、この基礎的道徳観を基準にすると良いかと思います。また、現代日本においては我々大人も勉強し直す必要があるように思います。
・・・えっとですね。
これ別に思想統一とか思想誘導とか、海外の基準がどうこうとかジェンダーのなにがしがどうこうとかそういうのじゃなく、「日本」としての基準となる道徳基準・道徳教育をどうするか?って問題なんです。
道徳を教えることに懐疑的な人もいるかと思いますが、この基準を国とか地域とか、一定規模のあるコミュニティ内である程度共通認識として持てる道徳(常識とも言う)を共有しておかないと、国や地域だけでなく、家族・友人関係においてもお互い尊重することができず、バラッバラになるからです。
なので、最低限度の共通した道徳的価値観を定め、教えることは社会をおかしくしないためにも必要なワケです。
公共の福祉でも同じことを書きましたが、今社会がおかしくなっているのって、「個人の自由」がこういう「共通した道徳観」よりも上にあるため、表現・言論の自由が暴走している結果だと見ています。(いわゆる行き過ぎた個人主義もそれに拍車をかけています。)
しかも、その情報に精神的に未成熟な層も簡単にアクセスでき過ぎますし、親も学校の先生もこう言ったことを教えることができる人が減っている(教える機会も減っている)ので、余計に表現の自由が暴走する。(幼少期から暴走した表現の自由に触れることで、それがその子達の中で「常識」となる悪循環・・・)
なので、再三の繰り返しになりますが、基礎的道徳観(ここは議論のしどころ)を国として定義し、自我の芽生えと同時くらいから家庭・地域・学校教育で行う。次に、基礎的道徳観を身に着けていない・精神が未発達な幼児~ある程度の年齢(ここが議論のしどころ)の子供たちには、そういった情報は可能な限り法的規制で切り分けを行うことが必要だと考えます。
基礎的道徳として必要なものは?
あえて反発を買うような言い方をすると教育勅語的なものなのですが、教育勅語には「十二の徳目」ってのがあるんです。
ちょっと紹介します。
- 孝行/親に孝養をつくしましょう
- 友愛/兄弟・姉妹は仲良くしましょう
- 夫婦ノ和/夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
- 朋友ノ信/友だちはお互いに信じあって付き合いましょう
- 謙遜/自分の言動をつつしみましょう
- 博愛/広く全ての人に愛の手をさしのべましょう
- 修学習業/勉学に励み職業を身につけましょう
- 智能啓発/知識を養い才能を伸ばしましょう
- 徳器成就/人格の向上につとめましょう
- 公益世務/広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう
- 遵法/法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
- 義勇/正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう
これ、なんか問題あります?むしろ、人としてあたりまえのこと書いてません?(まぁ、最後に「ん?」っての付いてきますが「国のために」って文言を外せばどうでしょう?まぁ、国のためにってのも解釈一つなのですけど・・・。)
教育勅語って単語だけ聞くと、軍国主義とか戦争とかを想起させるんですが、中身こんな感じなんです。
それでも、「毒親の事なんか孝行」できねーよ!などの意見出るかもなのですが、この教えを守っていくと、そもそも親が子に対する接し方が毒親仕様ではなくなっていくので、子も親も今より断然良い関係をつくっていけるようになります。ほかの徳目にしてもそうなのですが、これを守っていくことで、結構、お互い仲良く暮らしていける感じしません?(いま毒親抱えているご家庭は別の問題解決が必要かと思います。何気に、ワタシもそうです。大変困っています。)
ま、別にこれをこのまま教えろって言うつもりはないのですが、ヘイトクライムや人種差別的発言、攻撃的な表現等についてもこう言った基礎的道徳が常識として備わっていれば、そもそも「極端な思想」に対して、「ああ、こういう人はほっとこう」と、今よりは格段に冷静に受け取り、対処できるようになっていくと思っています。(発信している人にも一応、言論や表現の自由があるので仕方ないです。ただ、公共の福祉に反するようなものについては法的罰則が必要で、その基準は議論して決めていくべきです。)
一応付け加えておきますが、明治維新以降の戦前教育の大きな問題点は、こういうものとは別のところにあるのですよ。
簡単に説明すると、欧米に負けない国を短期間で作るために思想の方向性を極端に統一してしまい、社会全体でもそれに逆らえない雰囲気を作ってしまったってコト。当時は植民地と欧米列強しかない状態だったので、有無を言わせず1方向の思想に導いて国を強くするしか生き残る道がなかったのです・・・。
ただ、それ以前(江戸時代)は、幼少のころに常識をたたき込み、そこから先は個性に合わせた教育を行っていたようです(武士階級の話)
なので、今教えるとしたら、こう言った内容に加え、現代に必要な考え方(多様性やジェンダー平等、それぞれの人生観など)を融合させたモノが良いと考えています。
ジェンダーについてはちょっと悩ましいところなのですが、今のところ男女間でないと子孫が残せず、子孫が残せないと我々が暮らすコミュニティー(国)が存続できないので、性教育等はそこを軸に行いつつ・道徳教育・国史・世界史・国家観・家族観を教えていき、その中にジェンダーや人種、様々な差別の歴史等の問題についても取り入れ、「世の中には色んな考えやを持っている人があたりまえにいるんだよ~。で、そうなったことやそうなっている理由はこんな感じなんだよ~、違いがあるからって攻撃しちゃダメなんだよ~、差別しちゃダメなんだよ~」っていう方向での道徳教育がよいかと考えています。
個人的に目指している将来は、いわゆる「普通の人」が、いわゆる「普通でない人」を稀有な目で見てしまうような世の中ではなく、それを「あたりまえとして自然な存在(ここ重要!)」として受け入れ、お互いが尊重しあいつつも、なるべく広い範囲で自由なことを言い合える世の中なので、こういう方向性を望んでいます。
以上です。最後に結論をもう一度。
表現の自由は最大限守られるべきですが、暴走するとただ好き放題やりまくる無法地帯になるので、キチンとした基礎的道徳教育の上に「表現の自由があるべき」ってコトです。
なお、「表現の自由」の上に「公共の福祉」が存在しているので、「表現の自由」は「公共の福祉の範疇」において、最大限の自由を確保されるべきと考えます。
赤松健先生の出馬について
この時期なので、触れておきます。
赤松健先生が自民党から出馬することと、国会議員になることについては基本的にどちらも賛成です。
ただ、ほかにもっと・・・野党(個人的には国民民主・れいわ・保守系諸派が望ましい)にも表現の自由を守ろうとする人が国会に入ってほしいと考えています。
赤松健さんの出馬に賛成。その理由は、「表現の自由」を守りたいって勢力をまず政治の世界で増やすことが肝心だから
結局のところ、表現の自由を規制しようとしている側って、「自民党」ではなく、「規制したい人たち」がいて、その人たちが今、「自民党」に圧力をかけ、そういうことに元々賛成の少数政治家と、規制賛成の人たちの票が欲しい、心の底ではどっちでも良いと思っている議員が「規制賛成派」に回ってるのですよ。だから、ある分野では規制を緩くするのに、特定の思想や表現に対してだけ規制をかけるような内容になるんです。
なので、これへの対抗策としてはまずとにかく、国会議員の中にこの問題について、どんな立場の人であれ、「規制反対」を積極的に唱える議員を増やすことが重要なのです。
自民党側にいてもらう理由としては、自民党(権力側)でないと入ってこない情報・動かせない勢力・資金などが滅茶苦茶多いからです。国会での質問時間などもそうなのですが、問題を検討する委員会などでの発言力や各業界に対する影響力が段違いに強くなります。
また、野党にもこの勢力は必要です。
自民党側(権力側)に入ると、大きな力を手に入れることができる反面、その力を行使しようとするともっと上からストップが入ることがあります。もっと上の権力者の虎の尾を踏んだら基本的にアウトなので、ほとんどの議員は自分の議席を守るために、言うことを聞かざるをえない状態になってます。(ここも大きな問題です)
なので、一般的に過激すぎるとされるような発言や、本当に私たち(いわゆるサブカルオタク)がやって欲しい政策を大声で言いづらい立場となります。
手に入れられる権力には、大きな足枷がついてるのですよ。
※ただし、その議員が単体で大きな支持者を得ている場合は自由度が上がります。
ここで、野党勢力の出番です。
野党側は比較的権力や利権を持っていない側なので、特定勢力と結びつきが強い野党(どことは言わんが〇産とか〇憲とか〇新とか〇明とかw)以外は、中にいても「ある程度」好き放題モノが言えます。
なので、表現の自由の補完勢力(・・・というより本隊がこっちかな?)として頭数をそろえ、与野党議員で超党派の議員連盟なんかを作ってガンガン与党や、規制賛成派を突き上げていくんですよ。
そうすると、表現の自由を守りたい人の全体勢力が「選挙の票」として見える化されるので、議員連盟で上がってきたこの意見を背景に「まぁ・・・こんなに声あるなら仕方ないか・・・この意見を取り入れたら、自民党の票が増えるかもしれないからね」って、権力を持ってるお偉い方を納得させられれば、ひとまず勝ちですよ。
自民党にこれ以上権力を持たせると~って言う主張にもワタシ個人としてはある程度同意できるのですが、残念ながら主戦場がここ(自民党)なので、ここに目立つコマを置いておく必要があります。
赤松先生の作品・・・「ラブひな」とかじゃなく、直近で連載が終了したUQホルダーを読んでると、多分その辺については重々承知の上で立候補されたんじゃないかなぁ~と思います。「ネギま!」の中~後半辺りから、どんどん作品の方向性が変わって行ってるんですよね~。
お互いやってること気に入らんかもだけど、ここで争うのが一番、規制したい側・サブカル利権を独り占めしたい利権団体にとって嬉しいことなのですよ。
国のクールジャパン事業を電通とかにやらせちゃダメなの。まずはそれを阻止して、する力を結集させなきゃダメなのです。
表現の違いについての理解を深めて欲しい
表現の自由系の議論を見ていると、やれ「日本は凄い」とか「海外はダメ」とか、逆に「海外ではこんな表現もあるから日本がダメ」とかそういうものを見かけますが、ワタシからするとどちらもちょっと違うと考えています。
これらについてはすべて「国ごとの表現の範囲」が違うだけじゃないでしょうか?
例えば、日本の場合は比較的「エロ」については自由度が高い(ロリショタ系も幅広く含む)ですし、規制はかかりますが、グロ系も一般投稿レベルで許されているところがあります。
ただ、同性愛系とかはソレ専門の物語以外の中にはあまり登場しませんし、登場してもいわゆるオネエだったり、特別なものとして描かれることが多い印象です。
女性キャラクター・男性キャラクターは共に美形が多いのも特徴ですかね。
かたやアメリカでは比較的「エロ」については慎重ですし、いわゆるロリショタ系のコンテンツに対しては非常に規制が強いです。、日本で普通に流通しているラノベコミックなどにも規制や修正が入ります。
ただ、政治風刺作品系には性犯罪・ドラッグ・セックス・同性愛・陰謀論・政治ショー・男女差別・人種差別・銃問題などの表現がかなり直接的に描かれることがありますし、洋ゲーなどは血しぶきが飛び散るような表現なども結構見受けられます。近年ではかなりリベラルな思想に基づく表現が行われ、保守的な表現が規制されるような流れにもなっていますね。(これはヨーロッパもかな?)
わかりますこれ?単純にその国が歩んできた歴史の中で培われた文化の違いからきてるんです。
なので、日本がこうだからとかアメリカがこうだからとかで判断できない代物なんですよ。
この辺間違うと、結局は全世界統一の基準みたいな表現しか許されなくなってしまいますので、ワールドワイドな多様性を確保するうえでも、自国の表現は自国で決めていくって思想が必要だと思います。
他国と比較して決めるんじゃなくて、自国をどうするかを考えましょうよ。
個人的に欲しいと思っているもの「ガイドライン」
コミュニティ・表現者による「2次創作ガイドラインが欲しいです。
幸い著作権法は被親告罪のままなのですが、我々2次創作をするオタク勢は日々、創作をする際にビクビクとしているところがあります。
これは、公式がどの段階まで踏み込めば訴訟を起こされるか~みたいなトコロで心の制限がかかっていることが大きいと思いますので、公式が明確にこのガイドラインを定めることで、ファンサイドは自由闊達に2次創作を楽しめると思います。
ちなみになので、この「ガイドラインを作ることを推奨する」ことと、「こんなガイドラインを作ればよいよ」と言うガイドラインを作るためのガイドラインは国レベルで定めてもらう(法制化ではなく、あくまでガイドラインレベルの代物)と、企業側も、それ以外の表現者も自身のガイドラインを出しやすいかと思います。
※あくまで推奨なので、「ガイドラインを定めない」と言うガイドラインもアリですw
また、そういうものがない中で2次創作することがスキって方も多いと思いますので、大いに議論が必要がと思います。
まずはこんな感じかなぁ。
価値観の文化的な違い等々についても書きたかったのですが、上手くまとめられませんでした・・・。
う~ん、まだまだ勉強が足らない。もっと学びたい。
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